2011年3月の夜景
2011年01月16日と17日の久し振りの大雪の時のながめ
鈴鹿市高岡城跡からのながめです
高台にあたるこの場所は景色がとっても良い場所です。 伊勢鉄道の列車が通過するのも見えます
お城の遺構とかは何もないような場所ですが、山城だったとされる高岡城だけに
景色がとっても素晴らしい。
この高岡山城跡は 高岡山南公園のすぐ近くです
■高岡城跡:石碑より
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高岡城は標高五十米、南に鈴鹿川 北に深い谷がある自然の要害地に
築かれた山城であった。
西の空掘り付近は馬場の跡と伝えられている。
城主は(伊勢鈴鹿神戸城)神戸友盛の家老知勇兼備の名将山路禅正であった。
永禄十年(1567年)初秋、織田信長の大群が高岡城を攻めてきたがこれを防いだ。
翌年二月、再度攻めてきたが、山路禅正は屈しなかった。
そこで信長は三男、信孝の養子を条件に和睦を策とした。
元亀二年(1571年)正月、信長は友盛に隠居を命じた。
主君友盛の不遇に義憤を覚えた禅正は謀反を企てたため不意を襲われて
自害に追い込まれた。
その後、信孝の血縁の小島兵部が高岡城主となった。
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とあります。========================================================
高岡城は標高五十米、南に鈴鹿川 北に深い谷がある自然の要害地に
築かれた山城であった。
西の空掘り付近は馬場の跡と伝えられている。
城主は(伊勢鈴鹿神戸城)神戸友盛の家老知勇兼備の名将山路禅正であった。
永禄十年(1567年)初秋、織田信長の大群が高岡城を攻めてきたがこれを防いだ。
翌年二月、再度攻めてきたが、山路禅正は屈しなかった。
そこで信長は三男、信孝の養子を条件に和睦を策とした。
元亀二年(1571年)正月、信長は友盛に隠居を命じた。
主君友盛の不遇に義憤を覚えた禅正は謀反を企てたため不意を襲われて
自害に追い込まれた。
その後、信孝の血縁の小島兵部が高岡城主となった。
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※織田信長の伊勢侵攻についてについては、津城跡のところでも出てきますので、何百年も昔 戦(いくさ)があったんですね。
鈴鹿市の神戸城の神戸友盛の家老のお城。で前線基地だったんですね
今は 静かな小高い丘での上で静かな場所です。
※休憩の為の 屋根のあるベンチがあるのみです。
手前が鈴鹿川 矢印のある部分が高岡城あとです。