三重県鈴鹿市にあるお城:(伊勢)神戸城跡
2010年3月 久しぶりに見に行ったら 石垣補修されていました。 良かった♪♪
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神戸公園駐車場から天守台を見て
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三重県鈴鹿市神戸5丁目にある神戸公園(かんべこうえん)と神戸高校(かんべこうこう) この場所に、明治時代まで神戸城がありました
※2009年11月6日 中日新聞によりますと天守台の石垣落下が発見されたそうです(T-T)
2009年11月07日時点で立ち入り禁止になっています
神戸城跡:三重県指定・史跡
2010年追加:文献として 明治4年(1871)に解体と払い下げが始まり、大手門は明治8年2月22日に四日市市西日野町 顕正寺に譲渡契約がなされ、翌9年1月に解体搬出されています。(仲見秀雄「神戸城跡」『三重の近世城郭』三重県教育委員会1984年)がある。
伊勢平氏の子孫関氏の一族神戸氏は、南北朝時代(14世紀) 飯野寺家町の地に沢城を築いたが 戦国時代の1550年代にはこの地に神戸城を築いて移った。 神戸氏7代目友盛は、北西に威をふるったが、信長軍の侵攻により永禄11年(1567) 信長の三男 信孝を養子に迎えて和睦した。 中略 江戸時代、城主は一柳直盛(ひとつやなぎ)、石川氏三代を経て 享保17年(1732)年 本多多忠統(ほんだただむね)が入国する。 本多氏の治世は140年間 7代忠貫(ただつら)まで続き 明治8(1875)年 城は解体される。
出典:現地看板 鈴鹿市教育委員会
年表
- 1746年(延享3年9月1日)本多忠統 5千石加増(計1万5千石)と築城許可
- 1747年(延享4年3月26日) ちょうな始め。二重櫓 一重櫓 二の丸 御殿 大手門 南大手門 西大手 二の丸御門などの着工
- 1748年(寛延元年9月11日)竣工
- 1819年(文政2年6月12日)城主:本多忠升 地震。大手右方の掘崩落 二重櫓の壁崩落
- 1854年(嘉永7年6月15日)城主:本多忠廉 安政大地震により二の丸櫓などの各所石垣崩壊 幕府へ破損修理箇所の地図提出
- 1871年(明治4年)城主:本多忠貫 建造物の解体と払い下げ始まる
出典:鈴鹿図書館所蔵 書籍名控えるのを忘れた
その他
神戸城主:織田信孝は1582年に 岐阜城に移っています
本多家は福井県の丸岡城・愛知県の岡崎城 石川家は滋賀県の膳所城・三重県の伊勢亀山城などなど 大名家としてお城めぐりをしていると出てきます。知らなかったけど名門の大名家が神戸城のあるじだったんですね!
今も残る石垣やお堀のある 神戸城跡
桜の咲く季節にも行きたい場所のひとつです
神戸城の大手門(移築現存)
神戸城大手門を移築されたと伝えられる四日市市にある顕正寺の門:出典:現地看板
1875年(明治8年2月2日)城主:本多忠貫 大手門、四日市顕正寺に譲渡契約
1876年(明治9年9月1日)大手門の解体搬出
出典:鈴鹿図書館所蔵 書籍名控えるのを忘れた
2009年11月の画像追加
移築現存している:鐘楼(しょうろう)
***現地立てカンバンより引用***
この鐘楼は、神戸城二之丸の太鼓櫓であったが、明治8から9年の城郭解体により現在地に移築されたものである。
創建の時代は不明であるが、初代藩主 本多忠統(ほんだただむね)が築城した寛延元年(1748年)以降 江戸時代後期と推察される。
神戸城主、本多家の家紋である立葵の入った軒丸瓦、軒下の漆喰の垂れ下がり、音を伝える連子(れんじ)に往年の太鼓櫓の特徴をよく残している。
間口3.9m 奥行き 4.8m 棟までの高さ 4.9m H11年3月鈴鹿市教育委員会
***ここまで***
2013年追加 蓮花寺の前にある木の電柱と伊勢神戸城から移築されたといわれる鐘楼
ここまで
神戸城にあったシャチ
***説明カンバンより引用***ここから
神戸城二重櫓の鯱(しゃち)
このシャチは、神戸城二の丸の東北隅にあった二重櫓にあげられていたものですが、廃藩置県の後、所在がわからなくなっていましたが、昭和11年(1936年)に東京で発見されて、旧神戸士族会が買い戻しました。
東部に「勢州神戸城主本多伊予守忠統延享四年丁卯六月築之」(せいしゅうかんべじょうしゅほんだいよのかみただむねえんきょうよねんひのとうろくがつこれをきずく)、口辺(くちへん)に「武州江戸神田住御鋳物大工田村庄右衛門尉藤原安道作」(ぶしゅうえどかんだじゅうおいものだいくたむらしょうえもんのじょうふじわらやすみちさく)と刻まれています。
***ここまで**
鈴鹿文化会館に展示してあった神戸城のシャチが鈴鹿市役所1Fロビーに展示場所移動されていました。。。。いつ移動したのか?知りませんでした。
鈴鹿市市役所1fに展示されているこのシャチのガラスケースについている説明カンバンの中にあった古写真(明治時代の二重櫓)
江戸時代の神戸城の絵図
その他:鈴鹿神戸城の近くにある観音寺の門
本や立てカンバンなどの情報が見つけられていないのでよくわかりませんが。。。。
このお寺の門の瓦の模様が、鐘楼などのカンバンなどで説明のある 神戸城 城主 本多家の家紋である立葵の入った軒丸瓦なので何か関係がないのかな?と思ったのでとりあえずここに記しておきます
この門にかかっている よくあるお寺の名前などの書いてある札には 前神戸城城主 忠升と読めるようなものも書いてあります。
2010年2月 修正
四日市市図書館所蔵の本 鈴鹿の歴史 P288 社団法人鈴鹿青年会議所 昭和50年9月25日 の中に
補陀落山観音寺(ふだらくざんかんのんじ) 神戸藩主本多家の菩提寺 で 楼門には忠永の書になる補陀落山の額がかかり軒瓦には立葵の家紋が残っている。
という部分がありました。
観音寺は 神戸本多家の菩提寺なんですね。
さらに追記 四日市市亀山製糸室山工場の門
四日市市室山にある今は操業していない亀山製糸室山工場の門は、2010年の2月にお伺いして聞いたところ、鈴鹿神戸城の 城門を移築したという言い伝えがあるそうです。
さらに、図書館などでも調査を続けよう
鈴鹿の桜>
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神戸の見附跡:三重県指定文化財※新しくページ作成しました