滋賀県大津市 膳所城(ぜぜじょう)
滋賀県大津市本丸町7 :現存している遺構としては膳所神社に移築された門があります。
(模擬)本丸跡にある城門
現地カンバン(石鹿地像尊の由来)から引用***ここから
元亀二年(1571年)織田信長は大軍で比叡山の社寺堂塔を焼き払い僧俗三千人を殺した。そして明智光秀に命じて坂本城を築かせた。その時比叡山内にあった石地蔵を全部ひきずりり下ろし城の礎石にした。
その後、本能寺の変で、信長がたおれた二年後の天正11年豊臣秀吉は、浅野長政に命じて、大津城を築かせた。
築城には、坂本城の石地蔵を運んで礎石にした。
関が原の合戦の翌年 慶長6年(1601)徳川家康は藤堂高虎に命じ膳所城を築かせたがこの時も大津城の石地蔵等は混んで礎石とした。
明治三年膳所城が廃城になった時、本丸、二之丸、三の丸跡から、これらの石地蔵が約300年ぶりに姿をあらわした。
以降 城跡の各所に放置されていたが、昭和38年有志相より、浄財の寄進もあり、この祀りが建てられた。現在約60体が祀られている。
***ここまで
こちらは、浄水場です。
柵があって入れませんが、柵の間から見える看板があります。※さらに一枚目の後ろに移っているのは、市民センターですが一番上はお城っぽく作ってあるのでこのアングルから撮影するとお城が残っているっぽく見えますね。。。
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膳所神社に残る遺構
膳所神社表門一棟:この表門は、旧膳所城の二之丸より本丸への入り口にあった城門で、明治3年(1870)の膳所城取り壊しの際に移築されました。
門は、棟筋と扉筋が同一の垂直面にない薬医門(やくいもん)で城門として多く用いられています。
屋根瓦には(三重県鈴鹿市の神戸城と同じ立葵の紋ですね)旧膳所城主 本多氏の立葵紋(たちあおいもん)がみられ、桃山時代の建築として貴重なものです。
脇には、潜り戸を付け、頑丈な造りで、城門としての貫禄を持っています。
大正13年(1924)四月に重要文化財に指定されました。
大津市教育委員会 平成5年(1993)三月
Important Cultural Asset (Building) ZezeJinja Omote mon gate
ここまで****
膳所神社表門について 大津市歴史歴史博物館のHP
膳所神社の西側にある門この門のわきにも膳所城門一棟という石碑がたっている。
膳所神社の場所
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その他 膳所城について
- 滋賀県観光情報
- 膳所城の写真イロイロ※詳しくいろいろな写真があるHP
- 膳所城の遺構などを紹介しているページ
- 大津歴史博物館:昭和40年代の航空写真
- 大津歴史博物館:膳所城跡公園・・・現存する遺構の紹介もあり
- 大津歴史博物:本多神社
- 大津歴史博物:和田神社(門は膳所藩校遵義堂(じゅんきどう)の門とのこと
- 大津歴史博物:常設展示の案内:膳所六万石 これは今度行ったら是非、いきたい♪♪
- 三重県亀山市のある歴史博物館内にて 膳所城の地図「江刕膳所(こうしゅうぜぜ) 御在城之節御城中井屋敷割之図(ございじょうの節ごじょうちゅうならびにやしきわりのず)」が展示されています。
- ***展示板から引用***は石川家が慶安4年(1651)に伊勢亀山城に所替え(ところがえ)となる前の膳所城と城下の絵図で、寛文2年(1662)の大地震の修築(しゅうちく)で二之丸が拡幅されて本丸と一体化する前の状況をしめす数少ない資料です***ここまで*** 写真はとってはいけなかったので絵図は撮影していませんm(_ _)m