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三重県 伊勢亀山城

-------------------------------2013年4月追加記事

桜を咲き具合をみにいったら! 復元修理が終了していました。 そして立て札には4/7に内部公開と書いてありました。※同時に通行止めとも書いてあったので電車で行く必要がありますね。

亀山市のHPでの発表はこちら>>>

亀山城

亀山城

多聞櫓(たもんやぐら)三重県に現存する唯一の城郭建築物です。

亀山城

亀山城

2009年5月現在、地震で崩れた石垣の部分が修理されていない状態です。

亀山城多聞櫓

亀山城多聞櫓

亀山城多聞櫓

亀山城多聞櫓

亀山城多聞櫓

亀山城

亀山城

亀山城跡公園として整備されています

公園の中には、SLがあります♪♪

亀山駅は国鉄時代 重要な駅として栄えていたそうです。今は新幹線が三重県を通らないので寂しい田舎の駅のひとつとなっています

亀山城公園

埋門(うずみもん)

埋門(うずみもん)

埋門(うずみもん)

****たてカンバンより引用*****

埋門(うずみもん)は、二之丸御殿と帯曲輪(おびくるわ)のあいだにつくられた小型の門です。
半分地下にもぐるようにつくられているので埋門(うずみもん)とよびます。
亀山城にある6箇所の帯曲輪(おびくるわ)への出入り口はすべて埋門(うずみもん)でした。
  この埋門(うずみもん)は今から130年ほど前に亀山城のほかの建物などとともにとりこわされ埋められていましたが、
平成15年の発掘調査で通路や石垣が発見されました。
幅1.8mではじめは門の幅がもっとせまかったのですが、その後西側に60cmほど広げられています。
また、江戸時代の終わりごろに石垣の積みなおしが行われています。
  門の柱をのせた平たい大きな石(礎石)のあたりには黒い玉石がしきつめらていました。
埋門(うずみもん)の上には二之丸北櫓(にのまるきたやぐら)という建物がありました。
  今のすがたは、発掘調査で発見されたようすをそのままにしています。

***ここまで****

 

二之丸御殿

二之丸御殿

亀山城二の丸跡(かめやまじょうにのまるあと)


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亀山市教育委員会のたてたカンバンより引用

亀山城内最大の曲輪(くるわ)で、現在の亀山西小学校・亀山市役所の付近一帯が二の丸にあたります。
本丸は将軍の旅館として整備された経緯もあって、二の丸が城主の居館であるとともに亀山藩の政庁である 居屋敷(いやしき)(御殿)とその別棟である「向屋敷(むかいやしき)」が置かれました。

亀山城内の中で最も建造物が多く、御殿のほかに外周には三階櫓である太鼓櫓(たいこやぐら)、二階櫓である神戸櫓(かんべやぐら)・向屋敷櫓(むかいやしきやぐら)・石坂脇櫓(いしざかわきやぐら) 平櫓である二の丸北櫓(にのまるきたやぐら)が建ちらなんでいました。

また、西の丸からは石坂門、三の丸からは太鼓門(たいこもん)でつながり、それぞれに門櫓をもつ枡形(ますがた)が設けられていました。二の丸の南北にある帯曲輪(おびくるわ)には、埋門(うずみもん)から出入りしました。 なお、二つの御殿には、馬場がもうけられていました。
  居屋敷は、古写真が残る文久二年(1862年)段階のもので 建坪665坪(約2195平方メートル)ありこれに土蔵や長屋などが附帯していました。
この御殿は明治四年(1871年)に取り壊されましたが、式台(しきだい)と大書院(だいしょいん)が西町遍照寺本堂として移築現存しています。

また学校改築事業に伴い平成15・16年度に発掘調査が行われ、室町時代後期からこの場所に城が構えられていることと、御殿が少なくとも三回の建て替えがあったことが確認されています。
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  この二の丸跡は大部分が小学校の敷地にあります。
  小学校の周辺に復元された帯曲輪(くるわ)や 櫓のあった位置に立て看板が設置してあります。

 

二之丸御殿の礎石(にのまるごてんのそせき)

二之丸の礎石

****たてカンバンより引用*****

礎石は建物の柱をのせる石です。
石のひとつには柱をすえたとみられる四角のほりこみがあり、殿様のいる
二之丸御殿の礎石とみられます。
また、黒い玉石は二之丸御殿の玄関前にしきつめられていたものです。
これらの石は、亀山西小学校の公工事前に行われた発掘調査で見つかったものです。

***ここまで****

帯曲輪(おびくるわ)

****たてカンバンより引用*****

城を敵から守るためにつくられた場所のことを曲輪(くるわ)とよびます。
曲輪(くるわ)の中で帯(おび)のように細長い形をしているものが帯曲輪(おびくるわ)です。
亀山城には、帯曲輪が6箇所ありました。
  この帯曲輪は東西43m 南北6.5mあり 殿様のいる二之丸御殿とはとなりあっています。
帯曲輪には建物はなく、意思を組んだ溝がめぐらされていたことが発掘調査でわかりました。
  また、ミゾには石を組んだ大きな水ためが作られており、
帯曲輪(くるわ)の中につくられた庭やお花畑などに水やりをしていたものと考えられます。
  城を守るための帯曲輪が、戦いのない時代が続いたので庭やお花畑など平和な使われ方に変わっていったことがわかります。
なお、見つかった溝や水ためは、埋めもどしてそのまま残したうえで全体を江戸時代の終わりごろのようすに復元しました。

***ここまで****

亀山城帯曲輪

亀山城帯曲輪

亀山城帯曲輪

帯曲輪(くるわ)

 

****たてカンバンより引用*****

土塀(どべい)
  土塀とは、壁土(かべつち)を塗った塀のことです。
亀山城の外まわりはすべて土塀で囲まれており、そのすべての長さは焼く2.6kmあります。
帯曲輪の土塀は古い絵図面に描かれていますので、土塀があったことは間違いないのですが発掘調査ではそのあとは見つかりませんでした。
このため140年ほど前に撮影された亀山城の写真にみられる土塀のカタチとつくりをもとに、昔の方法をもちいて作り直しました。
なお、一部は新しい方法も取り入れています。
この土塀は木組みに壁土を塗りこんだもので、中が太鼓のようにからになっていますので、「太鼓塀(たいこべい)」とよばれるものです。
  また、瓦(かわら)は亀山城で使われていた瓦から型(かた)をとって焼きなおしました。
  丸い軒瓦の模様は、亀山城主であった石川家が使っていた紋のひとつである「蛇の目(じゃのめ)」です。
  なお、ふつう城の土塀には鉄砲をうつ小さな窓(狭間(さま))をあけているのですが、
古い写真では狭間(さま)はひとつも見られませんでしたので、今回作り直した土塀も狭間のないものにしました。

***ここまで****

太鼓櫓跡(たいこやぐらあと)

太鼓櫓あと

太鼓櫓跡

****たてカンバンより引用*****
東三之丸から二之丸への出入り口となる枡形(ますがた)を固める三間四方の小規模な三階櫓で、最上階に
時を告げる太鼓が置かれたことから太鼓櫓の名がある。
  17世紀半ばの段階では存在していなかったものとみられ、江戸時代中ごろになって築造されたものと考えられる。
嘉永7年(1854年)の大地震で倒壊し、遅くとも文久2年(1862年)には再建されている。

 平成13年に、この「姫垣外苑」の整備である「くらしの道づくり事業」に伴う発掘調査で
太鼓櫓の石垣の基底部が発見されている。
この石垣の石材は表面が平坦になるように細かな調整痕跡がみられ、直線的な石垣であったことがうかがえる。
また、裏込石の入る幅がせまいことからそれほどの高さを持たない石垣と考えられる。
この石垣は埋め戻して保存され、園市や形状を歩道に平面表示した。
  なお、太鼓櫓の下層からは、戦国時代末期の空堀が確認されており、
近世亀山城の祖形がこの時期にまでさかのぼることをしめしている。

***ここまで****

亀山城跡

亀山城石坂門の石垣

石坂門

石坂門

 

亀山城石坂門の石垣 (亀山歴史博物館の玄関前に移築展示されている)

 この石垣は、発掘調査(平成11年7月から11月)によって地上に現れた、石坂門石垣と側溝部分を移設復元したものです。
石坂門は、亀山城本丸と二之丸の間の南側斜面に建つ櫓をそなえた西向きの門です。
城主本多俊次(ほんだとしつぐ)時代の文献には、まれに「坂口門」とも表記されています。
  そして石坂門も坂口門も「坂」という字が共通しているのは、坂(斜面)に建つ門として存在していたからでしょう。

亀山市歴史博物館:石垣移設場所

現存移築物について 二之丸御殿書院・式台・

 亀山城跡のすぐ近く(西町524)にある お寺

遍照寺にある本堂は、旧亀山城二之丸御殿の式台・書院を移築したものと亀山市教育委員会がたてたカンバンにありました。

亀山市HPの史跡ページにある写真はなぜか 寺の門の写真です(^^;


  敷地が狭いし駐車場がないお寺なので お城公園の駐車場にクルマを置いたまま
歩いていくしかないです。

遍照寺

遍照寺

■近くに残る侍屋敷遺構:加藤家長屋門と土蔵

加藤家長屋門

加藤家長屋門

加藤家長屋門

長屋門を内側から撮影

加藤家長屋門

■土蔵

加藤家土蔵

加藤家土蔵

現地カンバンより引用ここから***

 侍屋敷加藤家長屋門及び土蔵

 昭和25年12月1日指定

 加藤家長屋門は、亀山藩主石川家の家老職、加藤内膳家の正門であった。

 加藤家は、延享元年(1744)石川総慶(いしかわふさより)の備中松山(現在の岡山県高梁市)から伊勢亀山への移封に従い 現在地(亀山城南三の丸=現西丸町)に屋敷を構えた。加藤家屋敷は、文化9年(1812)に藩主御殿が焼失した際、仮御殿に使用されたほどの屋敷であった。

明治以降は、母屋の建造物の大半が他所へ移築されたが、長屋門・土塀・土蔵は保存された。

昭和62年に、長屋門が亀山市へ寄贈されたのを機に、崎に寄贈された土塀・土蔵とともに調査を実施し、家相図なども参考にして、幕末当時の姿に復元した。

 長屋門は、平面積約91.8平方メートルあり、入母屋棧瓦葺で、内部は男部屋・若党部屋・物見・廐(うまや)の四部屋にわかれる。西端に土蔵があり、土塀によって長屋門につながわる。

創建時期は江戸時代中期以降と推測され、当時の武家建築の様式を今日まで伝える。県下でも数少ない貴重な遺構である。

亀山市教育委員会  ***ここまで

 

 

この亀山城以外に 三重県内には伊賀上野城津城伊勢神戸城高岡城跡などがあります



 

鈴鹿市役所近く

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2022-04-28削除